野良猫の社会に異世界も…マンガの世界に見る「共生・家族・成長」の可能性

TVOD・コメカの漫画時評 第1回「共生・家族・成長」

ぼくは国分寺駅の近くで古本屋を営む零細自営業者なのだが、日々仕事をしていると、社会のなかで自分が如何に小さな存在であるか、後ろ盾の無い吹けば飛ぶような存在であるかを自覚する瞬間がいくつもある。

大きな会社に所属しているわけでも、力のある血縁や地縁を持っているわけでもないぼくのような人間は、たとえ今唐突に消えてしまったとしても、世の中にとっては特に何でもないことでしかない。そして自分が感じているこういった不安は、この社会において決して少なくない人が共有している感覚だろうな、とも思う。

ただ、そういう不安や寂しさとは裏腹に、ベタベタと群れたくなんかない、自分に対しても他人に対しても、個人という単位で考えることを大切にしたい、という気持ちもあったりするのだけど。

人間なんかよりシビアな世界に生きる野良猫たち

園田ゆり『ツレ猫 マルルとハチ』(1巻)では、ある事情で野良猫になってしまった元・飼い猫のマルルが、偶然出会った野良のボス猫・ハチと共に、たくましく生きていく姿が描かれる。

園田ゆり『ツレ猫 マルルとハチ』1巻表紙 ©️園田ゆり/講談社

絵柄はかわいらしく笑いやギャグもふんだんに織り込まれているが、世界観はシビアだ。

「いつも野良猫はこういうしょうもねえことで死んじまうんだよ」「お前なんかがいっしょに来たら一発で噛み殺されちまうぞ!」​といったハチの台詞のとおり、登場する野良猫たちは皆、常に死と隣り合わせの過酷な日々を過ごしている。現代社会を生きる私たち以上に、マルルやハチたちは吹けば飛ぶような存在としてこの世界を生きるしか選択肢が無いのだ。

ハチの「シマ」である3丁目についても、「3丁目の猫たちは縄張りが被ってるだけで 群れてるわけじゃない 仲間ってほどでもない適当なもんだ」とハードに語られるのだが、そんな群れない彼ら彼女らだからこそ、第7話「どうしようもない夜」を共に乗り越える光景が深い感動を呼ぶ。

ベタベタ群れてるわけじゃない、吹けば飛ぶような孤独な私たちが、それでも「どうしようもない夜」を越えていくために、如何にして共にあり得るか。この回で描かれた光景は、そんなことを考えるためのきっかけになるように感じた。

「共にある」形を模索する三人

共にあるということを考えるとき、私たちが良くも悪くも直面せざるを得ないのは、家族という単位についての問題である。その単位を肯定するにせよ否定するにせよ、なんらかの形でそれに相対することを、私たちは皆求められてしまう。

イトイ圭『おとなのずかん改訂版』(1巻)は家族の在り方を描こうとする作品だが、そこで描かれるのはいわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーの物語でも、ヘテロノーマティヴィティの物語でもない。

イトイ圭『おとなのずかん改訂版』1巻表紙 ©️イトイ圭/小学館

「男友達と家族になりたかった男と人助けをしたい女が結婚したら…?」という単行本帯のテキストのとおり、本作は、赤の他人として出会ったその日に結婚を決めた男女が形作ろうとする家族の物語なのだ。

「男友達と家族になりたかった男」=工藤総一郎には、その既にこの世にはいない男友達から”あげる”と委ねられた子ども・神野希々を育てたいという事情があり、そのための結婚を工藤から提案された女・槙野布紗子は、屈託の無い(ように見える)様子で、「人助け」としてそれを受け入れる。夫であり父であり、妻であり母であり、つまり「おとな」として生きることを突拍子もないスピードで決断したふたりと、この不思議な関係性のなかで「子ども」として生きることになった希々の三人が共に暮らし始めるまでが、第1巻のストーリーである。

抑圧的な繋がりのなかでしか生きられない世の中は地獄のようなものだ。ただ、「どうしようもない夜」を越えていくためには、何がしか共にあるための関係性を模索する必要がある。家族というこの世で最も抑圧的な関係性すらも、何かこれまでとはもっと違う形に変えていくことができると信じたい。三人が共にあろうとする今後の道のりを見守りたいと思う。

"謎の生物"との同居、家族の在り方のヒントに?

工藤や槙野のように、「おとな」たちは家族として「子ども」をなんとか育てていこうとするわけだが、ひょっこりと別のところから現れた存在が、「子ども」が「おとな」になるための時間を支えることがある。

紺野アキラ『クジマ歌えば家ほろろ』(1巻)では、中学1年生の少年・鴻田新が、ある日謎の生物・クジマと遭遇するところから物語が始まる。

紺野アキラ『クジマ歌えば家ほろろ』1巻表紙 ©️紺野アキラ/小学館 ゲッサン

渡り鳥のようにロシアからやって来たと語り、美味しい日本食を食べたいと切望するクジマを新は連れ帰り、家に招き入れる。新の兄・スグルや父・母は、何だかよくわからない生き物であるクジマに最初はギョッとするものの、なんとなく彼を家族に迎え入れ、次の春まで一緒に生活することになる。

第1話の扉絵には鴻田家の家族写真=家族の肖像が描かれているのだが、クジマはそのなかでごく自然に、新たちと共に佇んでいる。まるで『ドラえもん』のように家族に溶け込むクジマだが、彼(?)はドラえもんのように疑似的な父もしくは母、つまり保護者・監督者のように振る舞うキャラクターではない。「子ども」たちである新やスグルと同じ目線の存在として、しかし彼らとは異なる事情や生活様式を抱えている「他者」として、クジマは鴻田家の肖像のなかに佇む。ひょっこりと現れた「他者」としてのクジマの存在が、「おとな」になる過程を生きる新やスグルの在り方を支え、家族の肖像すらも変化させていく。

私たちはつい、戦後日本的な核家族の構図のなかでばかり「子ども」たちの成長について考えてしまいがちだが、「子ども」らの傍らに「他者」として寄り添ってくれるような存在にまでイメージを膨らませれば、家族の在り方の可変性へのヒントがそこに転がっているのではないか。

『おとなのずかん改訂版』の​ように「他者」同士が新たに編み直す家族の形もあれば、クジマのような「他者」が開き直していく家族の形もあり得るのかもしれない。

孤独の極点にいる少女の行き着く先

それでは、家族も傍らにいてくれる「他者」も不在だった「子ども」は、はたしてどのようにしてイニシエーション・ストーリーへと旅立ち、それを生き得るのだろうか?

紀ノ目『空っぽの少女と虹のかけら』(1巻)では、「わたしがいなくなっても どうせ誰も気にしない」という想いを抱えた少女・歩世子が異世界に迷い込み、奇妙な仮面を被った少年・エバと出会う。

紀ノ目『空っぽの少女と虹のかけら』1巻表紙 ©️Kinome(マッグガーデン)

『ツレ猫 マルルとハチ』での​マルルが野良の世界(=異世界)でハチと出会い「ツレ」となったように、歩世子とエバも共に行動し始めるが、読み進めるほどに物語は複雑な様相を呈することになる。

寂しく辛い境遇に置かれ続けた歩世子は自らの感情を強く抑圧しており、何の願いも欲望も持たない、主体性を喪失したキャラクターとして描かれる。異世界での旅を通して彼女が主体を回復・形成する成長譚(行きて帰りし物語)が紡がれるのか、それとももっと残酷で救いの無いお話が語られるのか、続巻での展開に期待が膨らむ。

今回取り上げた作品のなかでは本作が最も酷薄な世界観を持っており、帰属先の喪失が生む悲しみや、救いを求める人々が行き着く先としてのカルト集団、メサイア・コンプレックスの問題など、共にあることの諸々の困難を対象化する優れた物語構築能力を、著者に対して感じる。「わたしがいなくなっても どうせ誰も気にしない」、あらかじめ孤独の極点にいる歩世子の歩みの先に何があるのかを、案じずにはいられない。

漫画が描く物語には、吹けば飛ぶような小さな存在としての私たち=人間が、如何にして共にあることができるか、如何にして「おとな」であり得るのか、如何にして家族という単位に相対するか……といった問題の、様々なオルタナティブ・イメージや可能性を見出すことができる。そうした物語に触れながら、私たちはまた明日からの日々を、どうにか生き延びていくしかない。それぞれお互いがんばりましょう。いつかどこかで共にあれることを祈りながら。


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TVOD