下北沢の本屋が『もやしもん』第8巻を売り続けた理由

ビール片手に読みたくなる、あの名作のイチオシエピソード 。

菌やウィルスは目に見えない。目に見えないものはこわい。だから急に「場面によっては、​もうマスクはしなくてよし」と言われても即座には脱ぎ捨てられない。というのは本稿執筆時、2022年初夏現在の私たちの話。

気軽にビールについて詳しくなれる『もやしもん』

『もやしもん』(石川雅之)は2004年から2014年まで連載され、アニメ化や実写ドラマ化もされた大ヒット作だ。主人公の沢木惣右衛門直保は菌や​ウイルスを肉眼で見ることができる。舞台は農大。周囲の人々は彼の特殊能力をときに私利私欲のために生かそうとする。パンデミック下であったらだいぶスケールの違う作品になっていただろう。

主人公の特殊能力を危惧する院生の長谷川遥『もやしもん』1巻より ©️石川雅之/講談社

ところで私は東京・下北沢で2012年から「本屋B&B」という小さな書店を経営していて、オープン当初から長い間、この『もやしもん』の第8巻を売り続けていた。

『もやしもん』8巻 表紙 ©️石川雅之/講談社

1巻から揃えていたわけではなく、8巻だけを単独で棚に差していた。売れたら補充を繰り返していたので、かなりの数を売ったと思う。つい先日も、初めて会った人に「昔、B&Bでもやしもんの8巻を買いました」と言われたばかりだ。

8巻は、農大3年で酒好きだがビールにそれほど詳しくない武藤葵と、クラフトビールメーカーの醸造部の加納はなを中心に展開していく。エールとラガーの違いにはじまるビールの種類や国ごとの背景、日本の大手ビールメーカーとクラフトビールとの関係など、ビールに関する基礎が見事に織り込まれている。

発酵のタイプで分けられるビールの解説『もやしもん』8巻より ©️石川雅之/講談社

しかも、いわゆる教科書的な本と違って、それぞれ知識レベルの違うキャラクターが交わるストーリーを通じて説明されていくから、とてもわかりやすい。描写もリアルなので、クラフトビールの醸造所ってこんな感じなのかとか、オクトーバーフェストって楽しそうだなとか、絵からも伝わってくる。読んでいるだけで、ビールが飲みたくなる。

「8巻だけを棚に差す」という選択肢

本屋B&Bという店名は、BOOKS&BEERの略。本屋でビールが飲めるということが、オープン当初からの大きな特徴のひとつだった。パンデミックの影響でしばらく提供を中止していたが、現在はやっと再開することができた。

現在の「本屋B&B」外観。オープンから2度の移転をしている。

そんな店をオープンするとき、悩んだことのひとつが、マンガの取り扱いだった。

本屋にとって、マンガはひとつの売れ筋である。けれど一定のボリュームがないと要望に応えにくい分野でもあり、そして店はとても小さい。近くにはマンガに強いヴィレッジヴァンガードもある。特に下北沢店は東京進出一号店であり、ヴィレッジの中でも飛び抜けて力のある店だ。

よってマンガを揃えても、おそらく勝ち目がない。むしろ売場のいろんな場所に、それぞれの内容に合わせて、スパイス的に混ぜ込むような売り方をすることにした。その中で結果、最も売れ筋となったのが、ビールの本の棚に差した『もやしもん』の8巻だった。

スパイス的に混ぜ込むと言っても、巻数の多いものは置きにくい。けれど『もやしもん』8巻は、それ一冊でビール編として完結していて、ストーリーとしても単独で読んでもわかるように工夫されていた。何より、ビールが飲めることが店の大きな特徴でもあったので、ビールの本は店内の目立つ場所にあったし、お客さんから見ても「なんで8巻だけこんなところに?」という驚きもあって、手に取ってもらえる。だからとても売りやすかったのだ。

本屋B&Bは今年で10周年を迎える。ヴィレッジヴァンガードもまだ元気に営業しているし、最近は駅前にTSUTAYA BOOKSTOREもできた。古本屋もたくさんあり、得意分野もそれぞれに違う。本屋ごとに違った個性があり、それぞれの店を巡ることで様々な本が手に入るのは、下北沢ならではの豊かさだと思う。それはちょうど、日本のビールの選択肢の豊かさについて、教授である樹慶蔵に​よって語られるシーンと重なる。

かつおぶしを例にビールの選択の幅を語る樹教授『もやしもん』8巻より ©️石川雅之/講談社

残念ながら紙の『もやしもん』8巻は、発売から時間が経っていることもあり、いまはもう出版社の在庫がなく、仕入れることができない。けれどいつかまた在庫が復活することがあったら、ぜひ売りたいと思っている。もちろん電子版も出ているのだが、各巻ごとに用紙や印刷にも随所にこだわりが見え、本のページの地のところに文字やキャラクターが浮き出るよう​になっているなどブックデザインも秀逸なので、ぜひ紙でも手にしてほしい。

いま『もやしもん』を読み返すことは、いまなお続く目に見えないものとの戦いに対する、自分なりのスタンスを考えるきっかけになるかもしれない。1巻からじっくり読むのもよし、いきなり8巻だけ読むのもよし。できればビールを片手に。お酒の飲み方もマンガの読み方も、選択肢が多いほうがいいし、もっとずっと自由でいい。


Written by

内沼晋太郎