障子の隙間から、小学5年生の娘が父親の部屋を覗いている。ブツブツと父親の口調を真似ながら。父親は落語家で、いまは落語の稽古中なのだ。
「見える」
「部屋の中にはおっ父一人しかいない」
「なのに」
「だけど部屋の中には」
「3人いる」
稽古中の噺は『大工調べ』であろうか。棟梁と与太郎の大家の丁々発止のやりとり。娘の目には、父親とは別に、登場人物3人それぞれの姿がしかと見える。
映画であれ演劇であれ音楽であれ、作り手や送り手を主人公にした文化系マンガにとって、「作中の作品やパフォーマンスをどう描くか」というのは、大きなポイントとなる。
たとえば、「すごい演奏」があるとして、ステージ上のミュージシャンの動きと観客の反応だけで伝えるのか、なにがしかオーラのようなものを立たせてみるのか、いきなり背景が宇宙空間に飛ぶのか、誰かに台詞で説明させるのか――そこにはさまざまな方法がある。マンガ表現の数だけ、選択肢があるといってもよい。
落語はとてもシンプルな芸能である。噺のなかで江戸へ飛ぼうとも、次から登場人物が現れようとも、観客の目の前にいるのは、ただひとり。座布団に正座した落語家がパアパアしゃべっているだけだ。
最初のくだりに戻ろう。娘の目に映る棟梁は、片袖をまくり上げる父親と同じ所作をしている。落語家の能力が、噺のなかの世界を、現実に浮かびあがらせたのではない。観客(この場面では窃視者だが)の立場にある娘の脳内にはそう見えている、ということだ。そして、娘は思う――。
「いないのにいる 無いものが見える 魔法みたいだ」
父親が観客の前で破門される衝撃の展開
『あかね噺』は、今年2月に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まった落語マンガだ。6月に待望の第1巻が刊行された。
稽古をしている父親は、「阿良川志ん太」という芸名を持つ二ツ目の落語家である。ただし、主人公はというと、覗いている娘、朱音(あかね)のほうだ。では、志ん太は? なんと第一話で、所属する阿良川流一門を破門となってしまう。
入門13年目にして阿良川流の真打昇進試験となる公演に挑む志ん太だが、審査委員長である一門のトップ・阿良川一生の一存で、他の出場者とともに破門を言い渡されてしまったのだ。
多くの落語ファンが、立川流の「真打トライアル」という公演を思い浮かべるにちがいない。そして、全員破門という展開に、かつて立川流の家元・立川談志が、前座6人をまとめて破門にした出来事が頭をよぎるはずである。
しかし、破門といっても、前座と二ツ目とでは、重さも意味合いも違う(ちなみに、立川流の前座を破門となった立川志加吾こと現・雷門獅篭は、当時、立川流のあれこれをコミカルに描いた『風とマンダラ』という4コママンガを『モーニング』に連載していた)。ましてや、阿良川一生による破門宣告は、客前でのことである。
現実にはありえないだろう。だが、ありえない展開だからこそ、物語は急カーブし、圧倒的なフィクションの面白さが立ち上がる。
一般に、協会、一門、師弟といった人間関係や、高座のバトンリレーともいえる寄席興行をベースとした落語業界は、コンペティションに馴染まない。一部、コンテストなどもあるにはあるが、勝者と敗者のコントラストをそこまで際立たせるものではない。そもそも落語のネタが描く世界は、間抜けや失敗や弱者に対して優しい。だが、阿良川一生の暴力的なジャッジは、この落語のふわっとした心地よい空間を一刀両断する。
切実なリアリティが随所に
父の落語が好きだった朱音は、落語家となり、自分が真打となることで、阿良川一生を見返すことを決意する。いわば仇討ちの物語でもある。
ここで、なによりこのマンガがすばらしいのは、破門によって志ん太が落語の道をやめて会社員になったことを、周りの人間は喜んでいる、という描写が挟まれることである。
若かりし夢は、キャリアを重ねれば重ねるほど方向転換が難しくなる。端的に言って、辞めどきが難しい。周囲も厳しさを感じながら、おいそれと「あきらめろ」とは言える状況ではなかったのかもしれない。これは落語にかぎらず、多くののジャンルにも言えることだろう。
こうした切実なリアリティが随所に散りばめられている。物語の冒頭で志ん太が「大工調べ」を披露し、のちに朱音の初高座の会場ともなる「らくご喫茶」が、実在する「らくごカフェ」というスペースを模していることは、落語ファンなら誰でも気づくだろう。
「30人キャパで8人」
「場所代を差し引くと……」
この志ん太のボヤキが刺さらない二ツ目落語家はいるだろうか?
「落語監修」とクレジットされている現役の二ツ目落語家である林家けい木の貢献も少なからずあるのかもしれない。その後も、現実の落語界に綿密な取材をしていることが伺える描写が、随所に登場する。
才気溢れる先輩落語家たちも登場 、どんな落語に?
父親の破門から6年、17歳となった朱音は、改めて父の師匠でもあった阿良川志ぐまに入門する。落語家となった彼女の前に現れる、個性的な兄弟子や才気溢れる先輩落語家たち。彼らがいったいどんな落語をするのか、想像するだけでも胸が躍る。
阿良川一生のエリート弟子である阿良川魁生の落語は、噺のなかの登場人物が浮かび上がらない。色気ある女性も、間抜けな男も、演者である魁生本人の表情で描かれる。志ん太の高座とも、朱音の高座とも異なる表現手法が使われている。この先、落語家ごとのスタイル、芸風、腕によって、落語の描き方が変わってくるのかもしれない。
兄弟子のひとり、阿良川享二の指南を受けながら、「落語をどう演ずるのか」「客をどう掴むのか」といった細やかな技術のとば口に朱音が立ったところで、第1巻は終わる。
昨年、『あかね噺』とおなじ原作・末永裕樹&作画・馬上鷹将のコンビで、『タタラシドー』という短編読み切りが『週刊少年ジャンプ』に掲載された。こちらは高校生が文化祭でコントを披露する物語で、コントへ向かう高校生の心理のリアリティや、ネタにおける細やかなサイコロジー、キャラクターの立て方など、現代的な「お笑い」への高い解像度が印象に残った。
同作で見られた分析力は『あかね噺』にも存分に活かされており、かつ、長編としてのうねりを生み出すためのファンタジーの跳躍力も加わっている。
たとえばこの先、「新作落語はどう扱うのか?」とか「いわゆる定席のある寄席はどうするのか?」など興味はつきないわけだが、それらが登場しない世界線でもかまわない。いずれにせよ、この漫画を読んで落語にハマった若者たちが現実の寄席へと足を運ぶ、という未来はじゅうぶんに想像できるからだ。