拭い去ることはできない? 漫画から読み解く人間の欲望に潜む「キモい」部分

TVOD・コメカの漫画時評 第4回「あなたとのコミュニケーションを欲望する、『キモイ』わたし」

「わたしとあなた」の間に生まれるコミュニケーションは、「わたし」のことも「あなた」のことも傷つけ得る。そこでどれだけ倫理的に振る舞おうとしても、「あなた」に関わりたいという「わたし」の欲望そのものにエゴイスティックな部分があることは、やはり否定しがたい。

相手に対するコミットメントの仕方を適切な形にすること、端的に言えば相手を傷つけるような暴力に手を染めないよう努力することは言うまでもなく大切だが、しかし「わたし」のなかにあるエゴを見て見ぬふりし、「なかったこと」にすることにもまた違和感を覚える。「あなた」に関わる、コミットするというアクションそのものから自らの加害性を完全に拭い去ることは、不可能であるように思う。

しかしそれでも、「わたし」たちの多くが、「あなた」に対して手を伸ばすことを、何度も何度も繰り返す。加害的であることまで含めたコミュニケーションの欲望に、人間はどうしても突き動かされてしまうところがある。

「キモい」と自覚…女性店員に癒しを求める中年男性の漫画にみる欲望の厄介さ

地主『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』(1巻)では、日常に疲弊した中年サラリーマン男性・佐々木が、行きつけのスーパーの女性店員・山田の接客に「勝手に元気貰ってる」。

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』1巻表紙 ©️Jinushi/SQUARE ENIX

佐々木にとって山田の存在は「仕事終わりの癒し」であるが、彼は同時に自らが「山田さんのレジにわざわざ並ぶキモイおっさん」である、と自己認識してもいる。そしてある日、スーパーを出た佐々木がタバコを吸える場所を探してさまよっていると、「田山」と名乗る女性が喫煙所に招き入れてくれて……というところから、物語が動いていく。

前述のように佐々木は自らの行動を「キモイ」と自覚しているのだが、しかし彼はコミュニケーションの欲望を断念せず、繰り返しいそいそと山田のレジに並ぶ。「他人様に癒しを乞うな」と自らにツッコミをいれつつ、山田に癒されたいという欲望そのものは行動の形で発露し続けている。

「あの子のお仕事に勝手に元気貰ってるだけなんです」「俺が嬉しくなっていいのはそこだけ」という彼自身による線引きも、結局は彼のなかでの勝手なルール感覚に過ぎない。

自分の行為の危うさを自覚していてもレジに並ぶことをやめられない佐々木

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』1巻より ©️Jinushi/SQUARE ENIX

佐々木を、倫理的であらねばと一応反省しつつも結局「他人様に癒しを乞う」こと自体はやめられない、ある意味でだらしない人として見ることもできるし、自らの行動や欲望が持つ「キモイ」部分にできるだけ自覚的であろうとする、人間らしい人として見ることもできる。

一方の「田山」は、「俺が嬉しくなっていいのはそこだけ」と山田への距離感について話す佐々木に対して「安心した」「頑張ってお上品でいてね」と告げ、その後もコミュニケーションのなかで彼をからかい続ける。「佐々木さん あたしの癒し枠なんだもん」「山田さんのレジ並ぶ佐々木さんとおんなじだよ」「癒され方は人それぞれだよ」と語る「田山」は、佐々木にもっと関わりたいという欲望を徐々に膨らませていく。

山田に対して向けられた佐々木の欲望は「キモイ」ものではあるが、しかしその「キモイ」振る舞いがなければ、「田山」が佐々木に関心を抱くきっかけもまた生まれ得なかった。そして「田山」が佐々木をからかい続けることもまた、見方によっては「キモイ」振る舞いであるとも言えるだろう。

もちろん、小売接客業の女性店員に年長男性が勝手に「癒し」を求めることは完全に、120パーセントお門違いであり、佐々木自身が「こういう勘違いおやじが変な事件とか起こすんだろーなあ…」とモノローグで語るように、そうした行為は危険な暴力を生み出す可能性が現実では圧倒的に大きい。

改めて言うまでもないことだが、本作の状況設定はファンタジーとしての色合いが過度に強いものだ。ただ、ここで描かれるような「キモイ」人間になること(=相手に関わりたいというエゴイスティックな欲望を発露させること)がコミュニケーションの発生と展開に繋がっていく、というイメージそのものは、やはり説得的なものであるように思う。

「田山」との関わりから山田とも話すようになった様子が描かれている

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』1巻より ©️Jinushi/SQUARE ENIX

コミュニケートしたい、という欲望のなかには、何がしか「キモイ」部分がどうしてもどこかに拭い難く残り続けるとは言えないか。そしてそのことが、人間のコミュニケーションというものが持つ厄介さではないだろうか。

そして物語が進むにつれ、佐々木・山田・「田山」という、奇妙な三角関係の濃度が上がっていく。「わたし」が知らない一面が「あなた」のなかにあること、「あなた」に見せていない一面が「わたし」のなかにあること。関係性におけるそうした問題に、徐々にピントが合わせられていく。「あなた」に関わりたい「わたし」の「キモイ」部分が、この物語のなかでどのように描かれていくのかを、見守りたい。

推しを求めるあまりに『世界の終わりのオタクたち』がとった行動とは

羽流木はない『世界の終わりのオタクたち』では、滅亡後の世界を生きるオタクたちの姿が描かれる。登場するキャラクターたちは皆二次創作BLの愛好者であり、崩壊した世界を生き延びながら、オタクとしての創作/消費をそれぞれに繰り返している(ある事情により、ネット・ガス・電気は止まらずに供給され続けており、オタク生活を送るためのインフラは生き続けている)。

『世界の終わりのオタクたち』表紙 ©️羽流木はない/KADOKAWA

作品は六つの短編で構成されており、各エピソードは舞台となる世界を共有しているのだが、重要なのはオタクである彼女ら彼らが希求しているものがやはり「わたし」と「あなた」のコミュニケーションである、という点だ。

それは彼女ら彼らが愛好する二次創作作品内部の水位と、その作品を通した現実での自らのコミュニケーションの水位と、ふたつ並行した領域で同時に求められ、欲望されている。

「世界の終わりとハードボイルド同人事情」の主人公・黒烏龍茶は、「あの人の解釈が知りたい」という欲望を満たすために、推し作家に対して家凸を試みる。「みざり~」では、ハンドルネーム・みざり~が、大好きな同人作家であるハンドルネーム・朝霞に対して抱いていた「ずっと朝霞さんと話してみたかったんです!大好きだから!」という欲望を満たすために、彼女を拉致し、軟禁する。

拉致された状況に青ざめる朝霞『世界の終わりのオタクたち』より ©️羽流木はない/KADOKAWA

家凸も軟禁も、「キモイ」行為……というか、それを通り越してストレートに危険な暴力だ。黒烏龍茶は「終末に家凸なんて最悪だ…でも…… 間違っててもどうしても読みたい」とモノローグで呟き、みざり~は自らの行いを朝霞にまず謝罪するつまり『スーパーの裏で~』の佐々木と同じように、彼女たちは自分の行動の暴力的で「キモイ」側面を自覚しつつ、しかし推し作家たちに関わりたいという欲望を止められないのである。

登場キャラクターたちの多くは、世界が終わる前、社会における(主に「女性であること」に起因する理不尽な)抑圧に苦痛を感じながらも、オタクとしての楽しみを享受することでなんとか生き延びてきた人々として描かれる。

他のエピソードでは結婚生活に抑圧を感じている主人公も

『世界の終わりのオタクたち』より ©️羽流木はない/KADOKAWA

世界が終わり社会が消滅した後、彼女ら彼らは既存の人間関係や家庭や学校、勤め先から解放され、オタク創作/消費を通した「わたし」と「あなた」の濃度の高いコミュニケーションのなかに、少しずつ沈み込んでいく。

二次創作のなかで推しカプ(応援しているカップル)たちがそうするように、欲望を伴ったコミュニケーションに彼女ら彼らは現実の水位においても踏み出していくのだ。加害可能性が拭いきれないまま「あなた」に関わろうとしてしまうそれぞれの「わたし」の生々しい姿が、この作品にはとても切実な形で刻み込まれていると思う。

人間の持つ不合理な「キモい」欲望、ロボットには理解できない?

新彦『機械の心』所収の表題作「機械の心」は、宗田律博士によって開発された仕事系ロボット・CD pro2と、彼が性能テストのために素性を隠して働く企業の同僚・高橋葵とのコミュニケーションから物語がスタートする。

『機械の心』表紙 ©️新彦/少年画報社

CD pro2は一切の休暇を取らず、尋常でないペースでひたすらに働き続けるが、彼がロボットであることを知らない葵は、「人は仕事の為だけに生きていない もっと時間を好きなことに使うべきです」と諭す、つまり人間にとっての「休むこと」の大切さを説く。

グイグイと自分に関わりたがる葵の行動に戸惑い、取るべき対応を掴みかねているCD pro2に、休みの時間を「あなたの…愛してる人に使うべきです」と彼女は語りかけるのだが、機械である彼には愛という概念そのものが理解できない。

博士を父親と説明するも愛を理解できないCD pro2『機械の心』より ©️新彦/少年画報社

そしてCD pro2だけでなく、彼の開発者である宗田律博士もまた、愛という概念を、人の愛し方を理解できていないということが、物語が進むなかで明らかになっていく。

CD pro2に、そして宗田律に関わりたいという葵の欲望は、合理性に欠けた理解しがたいものとして、ロボット=機械の心には映る。労働から離れた休みの時間のなかで愛を表現しどこかの誰かに伝えること……例えば、同人の二次創作愛好者たちも、休日の創作/消費活動のなかで、そのように愛についての時間を生きていると言える……は、コミュニケーションの欲望を持たないCD pro2にとっては解読不能な行いなのだ。

そして休日にも仕事をし続ける彼の家に勝手におしかけて無理矢理一緒にゲームをやらせたり、あれこれと助言をしようとする葵の行動は、『スーパーの裏で~』の佐々木や「田山」のように、『世界の終わりの~』の黒烏龍茶やみざり~のように、自分勝手で「キモイ」ものだ。言ってしまえば、人間はロボットよりも「キモイ」のである。

エゴを持たない機械の心は、他人=人間に対して加害可能性のある関わりに踏み込むことはない(アシモフのロボット工学三原則も思い出そう)。ひたすら淡々と、規則正しく労働やタスクに邁進することができる。

CD pro2に合理的な行動ではないと言われる葵『機械の心』より ©️新彦/少年画報社

しかし、「あなた」に愛を伝えたりだとか、コミュニケーションを望んだりだとか、自分勝手で「キモイ」振る舞いを、「わたし」たち人間はしてしまい得る。そういう面倒くさい厄介さと何がしか付き合わざるを得ない生き物が、人間なのだ。葵がCD pro2や宗田律に伝えようとしたのは、愛であると同時に、人間が持つ「キモイ」不合理さそのものであったと言えるだろう。

「あなた」に関わりたがるこの「わたし」の「キモイ」欲望は、決して手放しに肯定されて良いものではない。本稿にも何度も書いたように、それは本当に簡単に、一方的な暴力の形で結実し得る。

だが、残念ながら(?)、そうした「キモイ」存在としての「わたし」自身に向き合い、それをまず受け止めること抜きには、「あなた」に向けて「わたし」の手を伸ばすことはやはり難しいのだと思う(この文章そのものが、私の「キモイ」脳内を、読み手であるあなたに押し付けている)。

「あなた」とのコミュニケーションを求めるこの「わたし」の、エゴイスティックで、不合理で、「キモイ」欲望そのものについて、これからも考え続けたい。