人生が拓けたあの日、思い出すのは薪割りとEVISBEATSの『いい時間』

息苦しさを抱えた過去のさきに訪れた"いま"

目の前の景色が一変する瞬間。そこにはいつも音楽がある。

人生の大きな転機となる30歳になる手前、私は長野県の山奥にいた。

20代後半になるまで旅行の習慣が一切なく、小さくて狭い社会の中で息苦しさを覚えながら必死に暮らしていた。二度目の上京になんとか成功し、社会人としての道を切り拓いたのが27歳。その後、運良く一度目の転職を果たして、心に余裕が生まれ始めた時期だったと思う。

SNS投稿で始まった"薪割り"の旅

Facebookに「大自然の中で薪割りをして、背筋を鍛えてみたい」と投稿した。元ネタは大人気ボクシング漫画『はじめの一歩』のとあるワンシーンなのだが、仕事の告知にまみれた現在のSNSと違って、当時は思いつきの短文を適当にぶん投げることができた。そこに意図はない。パッと思いついたあるがままの文章だ。

するとコメント欄に「私の家は薪でお風呂を焚いているので、薪割りできますよ」と、まだ会ったことのない女性からレスポンスがあった。

ただの社交辞令だと思いつつも、当時は新しい価値観を追い求めて、行動力に拍車をかけるようなマインドを作っていた。ダメ元のアタック。メッセンジャーでおそるおそる「コメントありがとうございます。本当に薪割りをしに行っても大丈夫でしょうか?」と送信ボタンを押した。少しの躊躇いはあったかもしれないが、快く「いいですよ!ぜひ遊びに来てください」と返信があったのだった。

無心で斧を振り続けた2日間

日程を調整して、松本市の近くの自然豊かな村へ向かう。母親と静かな田舎暮らしを求めて、数年前に引っ越してきたらしい。人には人の事情がある。決断を繰り返しながら、住みたい土地に移り住めるのはとてもいい時代だとも思う。

挨拶を終えると、「じゃあ、薪割りやってみましょうか!」と女性は笑顔で導いてくれた。念願の人生初薪割り。これで背筋をバキバキに鍛えて、山で遭遇したヒグマの眉間をストレートで撃ち抜くことができる。

そんな期待とは裏腹に、薪割りは意外とむずかしかった。イメージしていた真っ直ぐに立つ整った薪なんてなく、切り株の上に歪な薪をなんとか立てて、材木の種類と状態に合わせた角度で斧を振り下ろさなければならない。力任せで振り下ろしてもダメ。足元から頭のてっぺんにかけて、意識をピンと真っ直ぐに立てる。斧の重みを利用して、腰と膝を柔らかく落とす。

「パカーーーン!」

うまくいけば気持ちのいい音が山の中に鳴り響く。5回に1回ぐらいこの感覚を掴めたら御の字じゃないだろうか。ボウリングのストライクの快感にも似ている。

2日間で累計6時間。汗をだらだらかきながら、無心で斧を振り続けた。

自然と自分が一体化したような錯覚さえ覚えた。いや、錯覚ではなかったのだろう。この体験は、人生に足りないなにかを埋めるための重要なピースだった気がしてならない。薪割りは精神集中と身体性を伴った、人間の営みそのものとも言えるからだ。

目の前の景色が切り拓かれて訪れた"いい時間"

合間、合間にトマトやきゅうりといった採れたての夏野菜をもらって食べた。そしてガリガリくんのソーダ味。なんとなしの心遣いが、信じられないぐらい身体に染み渡った。

カラカラに乾いていたのだろうか。指先にまでトマトの甘みと水分が届くような感覚。ガリガリくんは一瞬で溶けたけれど、これまでで食べたガリガリくんの中でとびきり美味しかった。

暗く淀んだ時期をバネに這い上がってきた人生だったが、この薪割り体験は目の前の景色が”モーゼの十戒”みたいに切り拓かれた瞬間だ。ザーーーン。人間と自然が「ひとつになるとき」に、ふいになぜか訪れる。とてつもない、いい時間が。

翌朝、白馬に向かうローカル電車「大糸線」で、快晴の北アルプスを車窓から眺めた。鮮やかな柔らかい緑色の山、絵のように広がる青すぎる空。田舎のゆったりとしたスピードに身体を預けて、ガタンゴトンと揺れる車中で自分の人生を省みた。iPhoneにCDデータを取り込んで、移動中に必ずといっていいほど聴き込んでいたEVISBEATS『いい時間』の音と歌詞が、鼓膜を通して脳内に流れ込んでくる。ぜんぶ、つながっていた。

白馬に向かいながら聴いた『いい時間』(写真上、ジャケット)を手掛けたEVISBEATS(下)

薪割りの体験はもちろん、これまで生きづらさを抱えていた己の過去も、二度目の上京で掴んだチャンスも。

いまこの景色を五感で受け止めて、感性の血肉にするためのプロセスに過ぎなかったのだろう。