圧倒的な「音風景」にダイブ!五十嵐大介『魔女』収録の「KUARUPU」

音の描写を駆使して表現される"精霊の世界”

都市の中の小さな公園。遊歩道を外れて木立に入り込んでみるだけで世界は一変する。足元の土は「土」と一言で名指せるほど一様ではない。枝、何かの実、落ち葉。木の表面は粟立ち、航空写真で見る岩山のようにひび割れ、白や濃緑の地衣類に覆われている。歩き回り、這い回る生き物のサイズは目視できないほど小さなものから両掌を合わせたぐらいの​​ものまで、それぞれのスケールでそれぞれの環境に埋め込まれ、世界のバージョンを展開している。

管理された公園の木立からでさえ、自然は圧倒的な具体の世界なのだと感じられる。具体の世界は表面から無限に細分化するフラクタルな迷宮のようであり、歩けば歩くだけ、見入れば見入るだけ、目に見える景色が巻き直される。そこには「さまよう」ことの深い快楽がある。 

『チェンソーマン』の作者が参考にした漫画『魔女』の世界観

五十嵐大介『魔女』という漫画がある。第1集、第2集からなる魔女をテーマにした連作短編集だ。

『魔女』第1集 表紙 ©️五十嵐大介/小学館

小学館の月刊漫画誌『IKKI』の2003年6月号から2005年1月号にかけて掲載されていた作品だが、藤本タツキが自身の作品『チェンソーマン』で「参考にしています」とツイートしているのを見た人も多いだろう。

『魔女』では、洋の東西を問わず、さまざまな土地が舞台になっている。地下宮殿のあるイスタンブールのような街、南米のようなジャングル、韓国と思われる僻村の教会、雪の中を来訪神クランプスに扮した者が練り歩くアルペン地方のような土地(その後、バチカンのような場所へ赴くのでイタリア北部だろうか)。

『魔女』の第1集に収録されている「KUARUPU」は南米のジャングルのような土地を舞台にした作品だ。タイトルの「KUARUPU」は「クアルプ」とルビが振られている。

「KUARUP」あるいは「QUARUP」はアマゾン川の支流であるシングー川の上流域に住む人々の間で行われる弔いの儀式である。「KUARUPU」としていることからも実在の儀式からの「ズレ」がそこには意図されているのではないだろうか。(『魔女』第2集の「PETRA GENITALIX」ではバチカンのサン・ピエトロ広場に似た場所が描かれているのだが、実在のサン・ピエトロ広場が円形であるのに対し、作中では四角形になっている。現実との「ズレ」は意図的に混入されたものであるように思う。)

音の描写で表現される人間が森にもたらす不協和音

「KUARUPU」は、森を拓こうとする人間たちと、開発に反対し森と共生しようとする部族を描いた作品だ。開発反対派のリーダー的存在であるロアントが殺され、愛人で呪術師のクマリが森の精霊に働きかけ森を拓こうとする人間たちに呪いをかけるのだ。​

「KUARUPU」の冒頭の扉絵に描かれているのはジャングル。圧倒的な具体の世界である。”夥しさの世界”といってもいいだろう。巨大な樹木、樹皮。垂れ下がる蔦。葉。落ち葉。木の根、菌類。そこに住む爬虫類とその眼球。ハキリアリ。樹上の猿。アリクイ。ヒト。巨大なものから極小のものまで無数の生き物が充満した世界。

『魔女』第1集より ©️五十嵐大介/小学館

視覚的に描かれているものだけではない。そこには音がある。樹上の猿が発している「チチッ」「チッ」という音。樹皮を這うトカゲが発する「キロキロキロ」あるいは「キキョ」という音。空間の上の方では、「コココココ」という鳥の鳴き声のような音。「ヒリンヒリン」「チキチキチキチキ」「ヒリンヒリン」「チキチキチキチキ」「ジー」「カチカチカチカチ」。見開きの2ページの中でこんなにも多くの音が描写されている。

サウンドスケープ生態学のパイオニアであるバーニー・クラウ『野生のオーケストラが聴こえる』(みすず書房)で、野生動植物の生息地におけるサウンドスケープを3つの基本音源に分けている。非生物による自然の音である「ジオフォニー」、人間以外の野生生物が発する「バイオフォニー」、人間が出す「アンソロフォニー」だ。

バーニー・クラウス 著、伊達淳 訳『野生のオーケストラが聴こえる』みすず書房

これらの生物群と自然環境の織り成す音響構造を波形によって分析すると、音による棲み分けの様態がみられる。動物の発する音はコミュニケーションにも用いられる。環境音にも搔き消されず、他の生物の音とも混線しない音のエコシステムは、まるで多彩な質感の楽器と声部からなるオーケストラのようだ。

「KUARUPU」では「音」の表現によって状況が劇的に描写される。冒頭の扉絵で描かれていたのは人間以外の野生生物が発する「バイオフォニー」である。大小さまざまな生命に溢れる賑やかなジャングルだ。その後のシーンでは、人間が出す「アンソロフォニー」が自然の中では異質に響く。銃の安全装置の発する「カキン」という音、男が咳き込む「ゴホッ」という、なかなか点火しないライターの発する「カチッ」「カチッ」という音。森に入り込んだ人間の、周辺環境との不調和が音によって際立って表現されている。

『魔女』第1集より ©️五十嵐大介/小学館

『野生のオーケストラが聴こえる』においてバーニー・クラウは、生物と自然環境の織りなすサウンドスケープの音楽的構造を感じ取り、調和的に参加する能力が、西洋文明の発展にともない衰退してきたと指摘する。このシーンでは、森の闖入者である人間の発する音を執拗に描くことで、周囲の音環境に馴染めていない状態が示されているようだ。

"精霊の世界"は音でどのように表現される?

次のシーンでは、非生物による自然の音「ジオフォニー」が支配的になる。ここでは、生き物の声もなく、人の声もなく、水の音だけが響く。水滴が葉を叩く音、滝が落ちる音。雨が降ると世界の表皮がざわめき、雨音にあらゆる音が吸収される。

『魔女』第1集より ©️五十嵐大介/小学館

続いて、音の描写は「フィリリリリリリリ」という虫の鳴き声に支配される。冒頭の多様な生き物が発するポリフォニーから一転して、ただ一つの声(モノフォニー)が響き渡る。森の中のすべてのものが、ひとつの目的のために駆動されているかのように。

『魔女』第1集より ©️五十嵐大介/小学館

そして、クマリの働きかけにより到来する精霊たちの世界は、音の無い世界である。一切の音も、動きを示す効果線も描かれていない。音が無いということは、動きが無く、時間の概念が無いということでもあり、このシーンではすべてのことが同時に起こっているように見える。

宙を舞う兵士たちの頭。全てのものが同時に存在するような感覚。精霊たちと人間、極大から極小までのスケールを瞬時に行き来する無時間性。「KUARUPU」で描かれる夥しい具体物の集積が見せるのは、瞬時にすべてを一望する感覚である。

『魔女』第1集より ©️五十嵐大介/小学館

そして、精霊たちが空間を満たすことによって仏教の細密画のような平面性が現れる。教義や真理を言葉ではなく図像によって表す曼荼羅だ。

「金剛界曼荼羅」はInstagramの9分割画像やルービックキューブのように9つの区画に分かれている。それぞれの区画は小さな円に分割され、小さな円の中にも複数の仏が描かれる。分割のプロセスが繰り返されて構成される図形はシェルピンスキーのカーペットに似ている。事物の分子的構造が露見し、あらゆるものが要素へと分割される。

「KUARUPU」の中で “呪術師の父” パブロは言う。「さて……世界には光や熱だけでなく、臭いもある。味も、音もある。重さも、湿度も……」そして、パブロに殺されたロアントの霊が続ける。「意志や、呪い。知恵や、幸福や、愛もある。その全てを、あるがまま感じるために。森にすむ者は裸なのだ。」

パブロは続ける。「森を視るのに、彼らの眼は十分な力を持っているのか……彼らは森で、何をみるのでしょうな。」

パブロが分割して見せた世界の要素、光、熱、匂い、味、音、重さ、湿度、そしてロアントの霊が付け加える意志、呪い、知恵、幸福、愛、それらすべての集積が「森」である。「KUARUPU」の中で展開される世界認識の方法は、分割と統一である。

"精霊の世界"の「音風景」が意味するものとは

ここでドイツの文化史家グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界-マニエリスム美術-』(岩波文庫)から、「KUARUPU」の世界観を、随所で現れる分割と統一のあり様を、そのまま示すような一文を引いてみよう。

グスタフ・ルネ・ホッケ 著、 種村季弘 訳 , 矢川澄子 訳『迷宮としての世界(上)-マニエリスム美術-』岩波書店

“(音や色などのような)「一なるもの」を分解すれば、結果的にはたしかに多様性が生じるが、それらはしかし、ふたたび軌を一にして「一なるもの」の音を響かせるのである。「一なるもの」はばらばらに砕かれても、永遠の「照応 (Correspondances)」は存続しつづけている。それどころか、ボードレールが同じ題の有名な詩「照応」において、音や匂いや色の間に 見出したのと同じ、この「照応」は、結局、こうした分割によってはじめて可視的なものとなるのである。「一なるもの」は、象徴の「森」である。「小暗い」、「深い」 ひとつの「統一」のうちに、「木霊の響きが混り合い」、「馨り、色、物の音が、かたみに答えあう」。”

『迷宮としての世界(下)-マニエリスム美術-』岩波書店より

「KUARUPU」で描かれる精霊たちは、多様な生き物が同時に同じ空間を占めているかのような姿をしている。精霊とは、具体的なものの背後にあるつながり自体が可視化された存在なのではないだろうか。であるとすれば、グスタフ・ルネ・ホッケの言う「分割によってはじめて可視的なものとなる」照応こそが精霊なのである。(すると、最後に出現した精霊の世界は、音の無い世界ではなく、動きや時の流れに伴って生じる音さえも、事物の織り成すつながり、すなわち精霊として可視化された世界なのかも知れない。)

「KUARUPU」では、精霊という不可視的なものを示すために、可視的なものとそれらのつながりが用いられる。その視点で『魔女』という作品群が断片的に描き出した広大な世界を、さまよってみて欲しい。