実はディストピア? 健気に生活する姿がいじましい『ちいかわ』の世界と現代社会

TVODコメカの漫画評 かわいさを通して描く「社会システム介入の不可能性」

他人から「かわいいね」と言われる機会が、あなたにはこれまでどれくらいあっただろうか。そしてそのときあなたは嬉しくなっただろうか、それとも嫌な気持ちになっただろうか。

「かわいい」というフレーズは昨今さまざまな意味合いを帯びるようになったけれども、現代日本語としてのこの言葉は基本的には、ちいさい・愛らしい・子どもっぽいといった意味合いで使われることが多い。様々な意味で「未成熟なもの」を前にしたときに人間が抱く感情が、「かわいい」という言葉で指し示されていると言えるだろう。

幼子のようだけど…孤立した労働者として生活するちいかわ

ナガノ『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』は、「こういう風になってくらしたい」という言葉からスタートする。そこにはなんだかよくわからない白い生き物が描かれ、「なんか小さくてかわいいやつ」と説明が添えられている。

『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』1巻表紙 ©️nagano

連作で描かれる「なんか小さくてかわいいやつ」の暮らしは、怒られれば暴れて逃げ出して、嬉しいことがあれば踊りだして、巨大なシュークリームを食べてカラダが汚れたら丁寧に洗ってもらって……といったように、好き勝手気ままに過ごしつつ他人に保護された状態、つまり手厚くかわいがられる幼子のような生活としてイメージされている。

ちいさくて愛らしいね=「かわいいね」、という他人からの眼差しを浴びながら、未成熟な生き物としてきままな暮らしをしたい……という退行的な欲望イメージから、この漫画は始まるのである。

しかしこうしたシンプルな欲望のイメージは冒頭数ページのあいだ披露されるだけで、コマ割りの漫画パート=作品本編に入ると、急速に「社会」のイメージが立ち上げられていく。保護下におかれた生き物として想像された「なんか小さくてかわいいやつ」=ちいかわは、他キャラクターたちとの社会的な関係性のなかで、「孤立した労働者」という、当初のイメージからは想像しがたい生を生き始めるのだ。

ちいかわたちから滲む不憫さを伴う「かわいさ」

ちいかわたちが暮らす世界には社会構造がざっくりと設定されており、主要キャラクターであるちいかわやハチワレ、ウサギたちのような「なんか小さくてかわいいやつ」らは、それぞれの自宅で生活を営み、「鎧さん」と呼ばれるキャラクターたちが斡旋する労働(モンスターのような「敵」を狩る「討伐」、草むしり業務としての「採取」など)で金銭報酬を得ている。

ちいかわたちや鎧さん(彼(?)らは皆、ちいかわたちに優しく接する)たちはおなじ社会を共有する市民として仲良く生きているように見えるが、いわゆるファンタジー漫画や童話で描かれるような共同性(森の仲間たちはいつも一緒に暮らしています、というような)はそこには無く、あくまで個々の生活と労働の単位は孤立化=アトム化されている。

鎧さんたちはちいかわたちに労働を斡旋し、商品を販売する

『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』1巻より ©️nagano

劇中で描かれるちいかわたちはたしかに「かわいい」のだが、彼(?)らの「かわいさ」は作品冒頭で描かれた愛らしさ・子どもっぽさとしての「かわいさ」だけでなく、末端労働者としてままならない生活を必死に生き、そしてそこにあるちいさな喜びを噛み締めるいじましいような「かわいさ」としての色合いも帯びている(モモンガというキャラクターだけは、ある事情によりこうした不憫さやいじましさをまったく理解せず、ひたすら幼児的で愛らしい「かわいさ」を身にまとうことだけに執着している)。

「かわいい」という言葉は、「不憫だ・気の毒だ」という意味の語である古語「かはゆし」に語源を持つらしい。ちいかわたちが体現する「かわいさ」には、この「かはゆし」という語が持っていたニュアンスが多分に含まれているように思う。

そしてこの不憫な「かわいさ」とは、現代社会を生きる多くの人間が抱え込んでいるものでもあるとは言えないだろうか。市民・労働者として孤立し、部分化したちいさな生や労働を余儀なくされる人間はどんどん増え続けていると思われるからだ。

小さな喜びを噛みしめるちいかわたちは現代人の映し絵?

ちいかわたちは基本的に、経済システムに拘束された状態で生活している。魔法のような不思議な力も存在するファンタジー世界であるにもかかわらず、ハチワレが憧れているカメラも、「討伐」のための武器も、労働を通してお金を貯め購入しなければ入手できない(労働自体も、試験に合格して資格を得なければ仕事内容に制限をかけられてしまう)。

またちいかわの自宅は自力で作成もしくは購入したものですらなく、食品商品である「むちゃうまヨーグルト」の懸賞で当たったものだ(ちいかわはあらゆる意味で無能力的に描かれており、自力で家をつくる体力も、購入する経済力も無いと思われる)。ちいかわは自宅以外にすき焼きセットも商品懸賞で当てるのだが、肉を口に運びながら少し涙を浮かべている彼(?)の姿は、まさに不憫でいじましい「かわいさ」を、読者に感じさせる。

すき焼きパーティにはハチワレとうさぎ、鎧さんも招待『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』2巻より ©️nagano

消費生活(しかも購買力が無いため懸賞に頼らざるを得ない)のなかにあるちいさな喜びを切実に噛み締めるこうした「かわいい」姿は、格差が激しくなり続ける資本主義社会を低所得者層として必死に生きるぼくら自身の映し絵であるように思えてしまう。自立性を失い部品化されていく多くの現代人の生活は、「かわいく」映り得るのである。

モンスターに変貌? ほのめかされる奇妙な設定

しかしこうした閉塞的な作品世界のなかに、ある奇妙な設定がある。はっきりと明示されてはいないものの、「なんか小さくてかわいいやつ」らはどうやら何らかの原因で、キメラ状のモンスターになってしまうことがあるらしいのだ。

短期労働先でちいかわと仲良くなった「なんか小さくてかわいいやつ」が何故か巨大なキメラになってしまったことが劇中でほのめかされ、また作品序盤にもキメラ状のキャラクターが登場し「こんなになっちゃった」「なっちゃったからにはもう…ネ…」と泣きながらつぶやいたあと、爪を剥き出しにしてちいかわに襲いかかってくる描写がある。

序盤に現れたキメラ状のキャラクターは変貌前の面影も『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』1巻より ©️nagano

キメラ化した彼(?)らは「社会外」的な存在として扱われ(先述のキメラたちは、前者は討伐対象の「敵」として扱われ、後者も脅えたちいかわによって追い払われる)、またちいかわの同僚だったと思われるキメラは、「なんか小さくてかわいいやつ」が束になってもかなわないような強さ=高い戦闘能力を手に入れている。

ちいかわたちが憧れる「強さ」の実態とは

この戦闘能力としての「強さ」への言及が、本作ではたびたび行われる。

労働のひとつである「討伐」はどうやらランキング制であるようで、そこで一位を獲得している=トップランカーであるラッコは、ちいかわやハチワレの憧れの的になっている。ラッコは「強くなる」ことに固執して生きてきたキャラクターであり、ハチワレはラッコを師匠と呼び、自分も「強くなる」ことを夢見て努力している。

危ないところをラッコに助けられたのが出会いのきっかけ『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』1巻より ©️nagano

しかし重要なのは、ラッコやハチワレが執着する「強さ」とは、あくまでちいかわたちの社会構造内部でだけ行使される「強さ」でしかない、という点だ。

ラッコは「討伐」のトップランカーではあるが、「討伐」のシステムを管理する鎧さんたちのような立場に就いているわけではない。あくまで「討伐」システムのなかで使役され、「敵」を狩る労働力としての「強さ」を搾取されているだけだ。

ラッコもハチワレも、そもそもこの社会のシステムに何故従わなければいけないのかという疑問を持たず(「なんか小さくてかわいいやつ」らには、労組を結成したり条件交渉をしたりしているような気配は無い)、労働環境に個別に過剰適応する形で「強さ」を求め続ける、もしくはそれを使用し続けているのである。彼(?)らの戦闘能力が、自分たちを管理する社会システムそのものを標的にすることはない(そしてこの点もまた、市民・労働者が政治や経済システムへの介入回路を見い出しがたくなっている現代世界と印象がダブる)。

未成熟さを脱し成長を望む健気なちいかわたち

そもそも「なんか小さくてかわいいやつ」らの多くは、戦闘能力だけでなく恐らくさまざまな意味で弱い。弱く未成熟な存在であるからこそ「なんか小さくてかわいい」のだから。しかしそうした無能力さを抱え、管理下におかれながらも一生懸命労働に従事し、消費生活にちいさな喜びを見い出す不憫さがなお「かわいい」わけだ。

一方で、ハチワレが「強くなりたい」と願う気持ちには、そうした未成熟さを脱し、成長したいという願望を見て取ることができる。戦闘能力への固執をさほど見せないちいかわですら、黒い流れ星によってタイムループにはめられたり、木彫りの人形の呪いで妖精にされてしまったり、つまり現実の過酷さから逃れて無時間的な世界に逃避できる道が開かれるたびに、それでも前に進んでいくこと=成長できるように努力することを選び、現実に回帰している。

木彫りの人形の呪いを解くか一瞬考えるも現実に回帰することを選んだちいかわ

『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』4巻より ©️nagano

作品冒頭の退行的な欲望イメージとは異なり、彼(?)らは生活や労働のなかで前に進み、成長することを望み求めているのである。しかし前述のように、その成長イメージは、社会構造に過剰適応するような形でしかキャラクターたちに想像されていない。成長の象徴として最も頻繁に言及される「強さ」ですら、鎧さんたちに管理されるものでしかないのである。

成長の果てに辿り着く先は袋小路?

そして更に恐ろしいのは、「なんか小さくてかわいいやつ」らが「強さ」を手に入れる一番の手段とは実は恐らくキメラ化することであり、しかしそこまで強くなってしまえば、彼(?)らの社会から放逐・殺害される対象にされてしまう、という点だ。

つまり、ちいかわたちが「強くなる」こと=成長することの道筋は、鎧さんたちの管理構造に閉じ込められ続ける形か、社会から放逐され「討伐」対象になってしまう形か、いずれかの袋小路に辿り着くことを余儀なくされているのである。ちいかわたちが成長して未成熟な状態を脱し、社会構造においてなんらかの役割を担うという意味での「大人」に成長し、構造そのものへの介入なり変革なりを志向していく道は閉ざされている。

そしてそのような強烈な閉塞・抑圧のなかで一生懸命に生きる彼(?)らのいじましさ・不憫さが、読者に「かわいい」という感情を抱かせるのである(こうした感情喚起の力こそが、サブカルチャーが持つ魔力であるとぼくは思う)。

涙を浮かべながら「おおきい討伐」にも挑戦する『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』3巻より ©️nagano

『ちいかわ』は恐らく、現代で最も優れたディストピア・ストーリーのひとつであると言えるのではないだろうか。ちいかわたちが生きている、未成熟で無能力な「かわいい」存在でしか在り得ず、システムに対して介入することができない不可能な生とは、まさにいま現在ぼくたちが直面している困難そのものではないだろうか。

『ちいかわ』に触れることは、現代の不可能性に触れること

誰かにとっての愛らしく不憫な「かわいい」存在が、そこから脱却したい、成長・成熟したいと願ったとき当人による自立への意志のなかで、誰かが(勝手に)読みとったその「かわいさ」は、恐らく失われていくだろう。

しかしちいかわたちの成長への願いはあらかじめ不可能性のなかにあり、どれだけ強くなろうとしても、「かわいさ」を維持したまま(普段はハードボイルドなラッコが、好物のスイーツを食べるときだけは「かわいい」挙動をしてしまうことが象徴的だ)構造のなかで管理され続けるか、「かわいさ」を失った途端に外部に放逐され排除されるか、どちらかにしか道が開かれていない。

「かわいく」生き続けるか、「かわいさ」を捨てて死に向かうか、ちいかわ世界の社会システムは彼らに選択を迫り、そして少なくとも現時点では、システムに抵抗する方法は見当たらない。

システムに対する介入の不成立・不可能性を、その内部を生きざるを得ない存在の「かわいさ」を通した形でここまで酷薄に描き出すような作品を、自分は寡聞にして他に知らない。

『ちいかわ』に触れることは、現代という時代の不可能性そのものに触れることである。この荒涼とした世界のなかで、「かわいいね」という言葉は、はたして一体どのように響くだろうか。