オードリー若林も参考にした? 世阿弥が躍動する漫画『ワールド イズ ダンシング』

現代でも花を咲かせる能の世界と理論書『風姿花伝』

テレビの深夜番組を見ていたら、オードリーの若林正恭が世阿弥の『風姿花伝』を紹介していた。正確には林望の『すらすら読める風姿花伝』なのだが、この本には『風姿花伝』原文が掲載されており、さらにリンボウ先生による現代語訳と簡単な解説が付される。若林曰く、芸人として、この先の自分の立ち位置や振る舞いを考える際に、『風姿花伝』がとても参考になったのだという。

第一線のお笑い芸人も魅了する芸の理論書『風姿花伝』

『風姿花伝』は、能を大成したと言われる世阿弥が、亡き父・観阿弥の教えをもとに記した芸道論である。本書を含む世阿弥の著作群は一子相伝の秘伝書とされ、彼が生きた室町前期から約500年にわたり、一部の能楽流派宗家のみで極秘裏に受け継がれてきた。これを子細あって明治末期に歴史・地理学者の吉田東伍が発見し、存在が公に知られることとなった。

世阿弥は数多くの著作を残したが、『風姿花伝』はその最初のものとされる。亡き父・観阿弥の教えをもとに、能のシテ方(主役)のキャリア形成、舞台での演じ方、客のつかみ方などが、「花」「初心」「幽玄」といったキーワードとともに解説されていく。

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」という一文を、どこかで見かけたことがある人は多いだろう。とても具体的で、本質を突く理論書であることから、現代においても俳優論としてはもちろんのこと、エンタメ論、仕事論、人生論など、さまざまな切り口で広く読まれ続けている。

オードリー若林に『風姿花伝』を薦めたのは、ナンチャンことウッチャンナンチャンの南原清隆だったという。そこには、たしかにいまの若林が必要とする言葉が記してあった――。

「おほかた、似合ひたる風体を、やすやすと、骨を折らで、脇の為手に花を持たせて、あひしらひのやうに、少な少なとすべし。たとひ脇の為手なからんにつけても、いよいよ、細かに身を砕く能をばすまじきなり。何としても、よそ目、花なし。もしこの頃まで失せざらん花こそ、まことの花にてはあるべけれ」

現代語訳はこうだ。

だいたい自分に似合った風体の曲を、さほどな苦労もせずして、さらりさらりと演じつつ、むしろ若い助演者に花を持たせて、自分のほうがかえって助演者みたいな感じで内端内端に演じるのがよろしい。もし優れた助演者が得られないとしても、だからといって、年がいもなく、俊敏に動き回り身を砕くような演目をやるべきでない。自分ではちゃんと出来ているつもりでも、観客のほうから見れば、なんとしても見た目の花が無くなっているのだから。とはいいながら、本当の名手ならば、この年齢になってもなお見どころ魅力が十分残っているはずで、その失せないで残っている花こそが、本当の花であるにちがいない

林望・著『すらすら読める風姿花伝』(講談社)より

勢いある若手としての時期はとうにすぎ、人気のピークを迎えつつあるオードリー。現場レベルではこれまでどおりのやり方ではしっくりこない局面も出てきたりするのだろう。むしろそうした変化に対応してきたからこそ、いまのポジションがあるとも言える。

いずれにせよ、広く芸能界や番組内での立ち位置に変化を感じている若林に、上記のようなくだりが響いたことは間違いない。そして、これを薦めた南原の「助演者」回しの上手さは、たとえば最近もこの動画で、EXITの兼近大樹が証言するとおりである。

『ワールド イズ ダンシング』が描く、生き生きとした世阿弥と中世の芸能

前置きが長くなった。

件の深夜番組でオードリー若林が、『風姿花伝』とともに紹介したのが、世阿弥を主人公とする漫画『ワールド イズ ダンシング』だ。作者は三原和人。『モーニング』で連載され、このたびコミック6巻で完結となった。

『ワールド イズ ダンシング』1巻表紙 ©️三原和人/講談社

物語は、観阿弥・世阿弥親子の一座が、時の将軍・足利義満にまみえる少し前から始まる。この頃、能はまだ「猿楽」などと呼ばれていた。

観阿弥は、先行する雑多な芸能を吸収し、祭祀儀礼の要素が強かった猿楽を娯楽芸術へと磨き上げていく。その父のもとで修業する少年、鬼夜叉(のちの世阿弥)。鬼夜叉が自然を駆け巡りながら、「舞とは何か」「芸とは何か」を追い求める描写の美しさ、躍動感には、数学における美と調和の世界を描ききった三原の前作『はじめアルゴリズム』の成果がたしかに息づいている。

苦悩の末に「舞う」ことの意味に気付きはじめる鬼夜叉『ワールド イズ ダンシング』より ©️三原和人/講談社

青年マンガとして数学をビジュアライズするのも相当なハードルであっただろうが(そして、見事に成功していたが)、白拍子や田楽、乱舞といった中世の芸能を絵に起ち上げるのも、これまたなかなかの荒行だろう。だが、なんのその。そのどれもが世阿弥の目を通して、読者である私たちにも生き生きと映る。

足利義満邸の前で繰り広げられる乱舞『ワールド イズ ダンシング』より ©️三原和人/講談社

現代に生きる『風姿花伝』のサブテキストとして

ある芸能の揺籃期に立ち会う臨場感とともに思うのは、鬼夜叉は多士済々の芸能者とともにいた、ということ。田楽の未来を模索する田楽新座のエース・増次郎との舞競べには、バトルマンガとしての魅力も備わっている。

将軍御前での舞競べにおいて、猿楽は村々の祭祀を離れ、都市の演劇へと変貌する。そこには、義満をはじめ、目の肥えたオーディエンスがいる。ライバルたちがいる。ここに至って、なぜ『風姿花伝』には、あれほど詳細に、観客をつかむ技術や、芸能者としてサバイブする方法が書かれているのかがよくわかる。

田楽と猿楽の存亡をかけ、舞競べに挑む増次郎と鬼夜叉『ワールド イズ ダンシング』より ©️三原和人/講談社

観阿弥や義満のほかにも、メンターと呼べるような存在が現れる。鬼夜叉に和歌の教養をインストールする関白・二条良基、観阿弥を相対化する視点をもたらす先輩能楽師の犬王など。

とくに道阿弥こと犬王は、2022年5月に公開された湯浅政明監督によるアニメーション映画『犬王』(原作:古川日出男)も話題となったばかりだ(しかも、この原稿を書いているいま、本年度のゴールデングローブ賞にノミネートされたとの快挙が報道された)。ちなみに『ワールド イズ ダンシング』の監修を務めている観世流シテ方の能楽師・川口晃平は、映画『犬王』にも、人外(「古い面」)の役の声で参加している。

この犬王との舞競べを通じ、芸を高めあった果てにこれから――、というところで『ワールド イズ ダンシング』はフィナーレを迎える。

もしこの先があるとすれば、権力と芸術の関係、とりわけ足利義教とのフリクションが描かれることになったのだろう。だが、『風姿花伝』が足利義満の庇護にあった絶頂期に書かれていることを思えば、まさにそこで終わることで、本作は『風姿花伝』のサブテキストとしても息の長い価値を持つのかもしれない。

少なくとも『ワールド イズ ダンシング』の読者は、能が先行する多彩な芸能の集大成であり、さらに謡曲(台本)にはさまざま文学や和歌がサンプリングされていることを知るだろう。

驚くべきは、世阿弥の綴った詞章(文章)が、ほぼそのまま現在進行形の能の上演に使われているという事実。おまけに、その劇空間、演出術や俳優のあり方はまったく古びていない。いまだ深夜のテレビ番組にまで影響を及ぼしているほどだ。