幼少期に家族で引っ越しをした際、転居先地域の子どもたちの輪に馴染むことができず、仲間外れにされた経験がある。ありがちな話ではあるのだが、それでも当時の自分の心情を思い出すと、胸がギュッと締め付けられるような気持ちに今でもなる。疎外されること、世界とうまく繋がれないことは、どうにも簡単には言い表せないような心持ちを人間に与える。 その後も様々な経験をしながら、しかし世界とうまく繋がる自信が無かった自分が自己形成していくとき、疎外された側から見える世界を表現するようなサブカルチャー……例えば漫画や映画、ロック・ミュージック……が、常に寄り添い助けてくれた実感がある。 ともすれば社会のなかで「なかったこと」にされてしまいがちな孤独や寄る辺無さを描くサブカルチャーは、疎外感を抱く子どもたちが大人になるためのプロセスを、今も昔も支え続けているのだと思う。 漫画が孤独を支えてくれる側面を描く『これ描いて死ね』 とよ田みのる『これ描いて死ね』(1巻)の主人公である高校生・安海相は、友だちができず漫画ばかり読んでいた孤独な幼少期に、『ロボ太とポコ太』という作品に出会う。 『これ描いて死ね』1巻 表紙 ©️とよ田みのる/小学館 人間になりたいロボットであるポコ太が作中で「感情の大切さ」を説くことに感銘を受け、ポコ太に励まされるようにして外の世界に踏み出し、友だちをつくることに成功する。彼女の視界には今でもポコ太がまるでイマジナリー・フレンドのように存在しており、世界に直面することを常に助けてくれている。 そして『ロボ太とポコ太』の作者である☆野0先生が、実に10年ぶりの新作を同人誌即売会の「コミティア」で頒布することを知った安海は……というところから、物語が動き出していく。 人の孤独に寄り添い、励まし元気づけ、世界に相対することを支えてくれる表現としての漫画=サブカルチ
前回『望郷太郎』の初めに出てきた、原始社会で狩猟採集をして暮らすパルは「字」の存在を認めませんでした。「『字』は……嘘を本当に見せるもの」とパルは言います。 文字がないと、情報の伝達が困難です。アンデス文明は文字を持たず、縄の結び目を使って情報を記録していましたが、運ぶのも大変ですし、いまだに解読作業が続けられています。 これが何を示しているのかというと、文字があれば、書いたものが残っている限りどれほど時間が経っても、情報を確認することができるということです。そして、かなり複雑な思考も記録できます。そうやって人間は、過去の記録を参照したり新たに書いたりしながら成長してきました。しかし、パルの言うように、嘘を書くこともできますし、ある考えで人々を魅了することによって、危険な状況に陥れるような例もあります(「煽る」ということです)。 受け継がれる地動説の記録、その”移行の歴史”自体が主人公 インターネットを見れば、毎日のように自分が正しいと主張し人気を得ようとする人が現れて、反対する人とのもめ事が発生しています。文字は便利ですが、文字によって生み出されたそんな状況は果たして「幸せ」なのでしょうか。 『チ。―地球の運動について―』を読むと、改めてそんなことについて考えさせられます。端的に言ってしまうと、近代が始まる、その直前を描いた作品です。 『チ。―地球の運動について―』1巻 表紙 ©️魚豊/小学館 15世紀前半のヨーロッパは「C教」が物事の基軸となっている世界。そんな中、地動説はその教義に反するため、異端として厳しく処罰されていました。それでも、こっそりと研究をする人はおり、その存在を知ってしまった人は地動説の美しさに魅了されていく。しかし見つかったが最後、刑に処せられてしまいます。 天動説の心理の「美しさ」を問う元学者のフベルト『チ。―地球の運動について―』
TVODのパンスです。私たちが生きているこの社会とはどのような仕組みになっているのか。社会に対してどのように考えればよいのか。それを少しでも知るためには本を読んだり映像を見たり誰かの講演を聞きに行ったり……、さまざまな方法があるわけですが、いちばん手軽で頭に入りやすいのはマンガを読むことです。僕はいつもそう思ってマンガを読んでいます。 新鮮なディストピアSF『望郷太郎』 世界は大きく変転しており、モヤモヤすることもたくさん。そういうときはインターネットでうっかり変な情報を手に入れちゃうより、マンガの方が正確で良い気がします。一見荒唐無稽な物語からも、見えてくるものがあるはず。というわけで、最近読んだ中でそう思えた作品を紹介します。 『望郷太郎』1巻 表紙 ©️Yoshihiro Yamada 2019(講談社) 「世界の崩壊」ではなく「世界の初期化」。ちょっと新鮮なディストピアSFが、山田芳裕『望郷太郎』。世界的な大寒波がおとずれ、商社マンの舞鶴太郎は赴任先のイラクにて「人工冬眠」に入ります。しかし目覚めてみるとそこは500年後の世界。文明は崩壊し、たった一人取り残されたなか、太郎は日本を目指して旅を始めます。 最初はSFサバイバルものか!? と思わせますが、イラクから北上すると「人間」に会います。そこで暮らす「パル」と「ミト」の二人は、これまでの文明が「初期化」された原始の世界で狩猟採集を営んでいました。 ただし原始といっても、500年前までに人類が築いたモノーー建物やら道具やらは残存しており、ある意味自然の一部のようなものとして、彼らの生活に根付いているのでした。500年前のジャージを着たり、どこかにあったカーボンを使って弓を作ったり。一方で、文化的な部分は「初期化」されており、埋葬の習慣すらない、独自の世界観を持っているのです。 初期化された世界で生きるパルと
ぼくは国分寺駅の近くで古本屋を営む零細自営業者なのだが、日々仕事をしていると、社会のなかで自分が如何に小さな存在であるか、後ろ盾の無い吹けば飛ぶような存在であるかを自覚する瞬間がいくつもある。 大きな会社に所属しているわけでも、力のある血縁や地縁を持っているわけでもないぼくのような人間は、たとえ今唐突に消えてしまったとしても、世の中にとっては特に何でもないことでしかない。そして自分が感じているこういった不安は、この社会において決して少なくない人が共有している感覚だろうな、とも思う。 ただ、そういう不安や寂しさとは裏腹に、ベタベタと群れたくなんかない、自分に対しても他人に対しても、個人という単位で考えることを大切にしたい、という気持ちもあったりするのだけど。 人間なんかよりシビアな世界に生きる野良猫たち 園田ゆり『ツレ猫 マルルとハチ』(1巻)では、ある事情で野良猫になってしまった元・飼い猫のマルルが、偶然出会った野良のボス猫・ハチと共に、たくましく生きていく姿が描かれる。 園田ゆり『ツレ猫 マルルとハチ』1巻表紙 ©️園田ゆり/講談社 絵柄はかわいらしく笑いやギャグもふんだんに織り込まれているが、世界観はシビアだ。 「いつも野良猫はこういうしょうもねえことで死んじまうんだよ」「お前なんかがいっしょに来たら一発で噛み殺されちまうぞ!」といったハチの台詞のとおり、登場する野良猫たちは皆、常に死と隣り合わせの過酷な日々を過ごしている。現代社会を生きる私たち以上に、マルルやハチたちは吹けば飛ぶような存在としてこの世界を生きるしか選択肢が無いのだ。 ハチの「シマ」である3丁目についても、「3丁目の猫たちは縄張りが被ってるだけで 群れてるわけじゃない 仲間ってほどでもない適当なもんだ」とハードに語られるのだが、そんな群れない彼ら彼女らだからこそ、第7話「どうしようも